英語との出会い
北海道の札幌から東に40キロの所にある岩見沢は昔(60年、70年前の話)、周辺の数多くの炭鉱の町の中心地として、戦前から人口も増え、街はとてもにぎわっていました。その岩見沢から国鉄の支線がいくつも更に東の方向の山間部(日高山脈)に向けて伸びていました。支線の町の多くは炭鉱町で、人口もそれなりに多かったように思います。
岩見沢から30分くらいの山間部に、「朝日」という小さな炭鉱町がありました。 人口は5000人くらいだったと思います。
住民の大部分は炭鉱の工夫や炭鉱の事務の仕事をする人々でした。
当時の北海道は、“内地からの夢見る人々”が集まり、「故郷へ錦を飾る」つもりで働きに来ている人々も多かったと聞いています。
戦中から戦後の復興期、国内のエネルギーの中心である石炭への需要は非常に高く、周辺の炭鉱町は、私の子供の頃でもどこも非常に活気がありました。
私の祖父母は明治期に四国の徳島からこの朝日に入植した農家で、父はその地で生まれました。
父と母は結婚後もいくつかの地を転々としたらしいですが、私が生まれた頃には朝日に定着していました。
父はその町で商店(最初は雑貨店、後に洋品店に発展)を営業していました。
町の学校は小学校までしかなく、クラスは各学年1クラス(60人くらいだったと記憶しています)で、中学校は汽車で数分の隣町に通うことになっていました。
そんな小さな町で、小学校6年の学期が終わり中学校に行くまでの10日間位の休みの間に、中学校1年生の教科書が私たちに配られたのです。
その中に英語のテキストと英語の参考書がありました。
私が英語というものを見たのはその時が初めてでした。
英語の教科書のタイトルは、Jack and Betty
3歳上の兄貴がその中学校に通っていて、たぶん英語も多少勉強していたのだろうと思いますが、音読などはしていなかったせいか、兄が英語を勉強していたという記憶が全くありません。
私は英語を見たり聞いたりした記憶は自分が英語の教科書をもらうまでは何もありませんでした。
両親も周囲の人々にも英語を理解する人は皆無でした。
こんな“英語環境ゼロ”での私の英語との出会い(私は“英語との遭遇”と思っています)は、小さな“奇跡”だったと思うのです。
“奇跡”と思ったのはずっと後の事でしたが、私の人生を変えた出来事であったことは確かです。
初めて英語の教科書を手に取って読み始めた時、違和感とか、難しくて分かんない、とかの感想が全くなかったことに自分でも驚きました。
小学校時代、学校の教科書を家で開いた記憶がなかったくらい私は勉強しない子だったので、普通なら「なんでこんな難しいものを勉強しなくちゃいけないのか」と思うはずなのに、です。
家族の誰も英語を知っている者がいない中で、教科書と同時配布の参考書を見て、振り仮名で英文の読み方を覚え、意味を理解する、というやり方で勉強しました。
全くの未知の文字(同級生達は、ミミズの走ったような文字、と言っていました…)なのに、強く惹きつけられました。とっても面白いと思ったのです。
「とっても面白い」と思ったこと自体、不思議なことです。
小学校時代はいつも外で遊び惚けていた少年だったけど、急に家に居続けて英語の教科書をぶつぶつ言いながら読み始めたので、家族は不思議なこともあるものだと思っていたに違いありません。
This is a pen. ジス イズ ア ペン これは です 一本の ペン
I am a boy. アイ アム ア ボーイ 私は です 一人の 少年
私の“音読人生”の始まりです。
中学の新学期が始まり、英語の授業が始まると、楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。
これも不思議なことです。英語の授業が楽しいなんて。
週に一日だけ英語のクラスが無かった日があったのだけれど、その日は本当につまらないと思ったものです。
英語の授業が楽しいなんて、同級生の誰にも言いませんでした。
恥ずかしいですよ、当時のその年頃で勉強が楽しいなんて…
でも家ではいつも教科書の英語を音読していました。
ジスイズアペン、アイアムアボーイ…それから少しずつ難しい英文が出てきましたが、いつも英文を読んでいました。
もちろん、読み方はすべてカタカタ読みです。中学の3年間はそうやってずっと音読していました。
英語の成績は悪くなかったです。テストというものに慣れなかった私も(小学校時代はほとんど勉強してなかったので、テストは本当に不得手だった)、徐々に成績も上がっていきました。
いつもワクワクして、面白いと思って、何回も何回も音読して(正の字を書いて、20回は読んでいました)、単語の意味もすべて暗記していましたから、テストで分からないことが出るってことはほとんどなかったからです。
中学で英語を勉強し始めてから、その他の科目も少しは勉強しようと思い始めて、他の科目も徐々に勉強するようになりました。
そんな生徒だったので、中学を卒業する時にはクラスの中でまあまあの成績順位になり、結局岩見沢市内の有名な進学校に進学することになりました。
1950年代、戦後10年くらいの頃、私は中学を卒業したら就職するのか、高校へ進学するのかなど考えたことはありませんでした。
草深い田舎の町でしたから、就職する生徒がほとんどで、自分も何らかの仕事をするか、父の店を手伝うか、くらいにしか考えていませんでした。
当時は高校へ行くのが将来のためになるのか、なんていう議論が周りで行われていて、この類の話がウチの家族の中でもあったように記憶しています。
私は進学も就職もどっちでもいい、といったあいまいな感じでした。
当時の人々はみんなそんな風でした。
ですから、高校受験のための勉強なんて全くしたことがありませんでした。
そんな時、中学の担任の先生(英語の先生でもあった)が高校へ行くことを両親に勧めたのです。
私の学校の成績に何の関心もなかった親は「えっ、息子が高校へ行けるのか」と驚いたようでしたが、うれしかった風でもありました。
運よく高校受験に合格した時、私は父から腕時計のプレゼントをもらいました。
「なあんだ、父さん、僕の進学うれしかったのか」と思ったものです。
英語が好きで好きでたまらなかったお陰で、高校まで行けたことになります。
将来、この英語をどうしようなんて全く考えないで、とにかく高校まで自分を運んでくれたことになりました。
おかしいですね(笑)
(続く)