「天職」について- 人生に迷っている人へ、81歳からのアドバイス

最近40代の娘が、長く勤めている今の会社の仕事がもしかしたら自分の天職なのかもしれないとようやく思えるようになってきた‥というような話をしていて、自分の社会人人生を振り返ってメールでアドバイスを送ったところ、なかなか好評??だったので、少し修正してブログに載せることにしました。

以下メールより

私がアメリカから帰国後、持っていた教員免許で教師になることは頭になく、なんとなく英語を使える仕事をしたい、 と思っていたけど、北海道の地元ではそんな仕事はなく、Time / Life社の仕事に応募してわざわざ東京まで面接に上京したこともあった。
でも当時私は職業経験ゼロの新卒だったので就職できなかった。

結局、翌年(1967年2月)になって、Japan TimesのHelp Wantedの仕事に次から次へと応募するために、 思い切って東京に出てきました。
すぐに見つかったのは、英会話学校の講師の仕事でした。
しかもラッキーにも、学校の近くに部屋を借りることもできて、そこに移りました。
その部屋は、英会話学校の経営者だった人が教会の掲示板に「部屋貸します」という張り紙を見た、と言うことで私を連れて行ってくれたのです。
大家さん一家は年老いた母親と娘さんの二人住まいで、男が住んでいれば防犯になると思っていたらしい。

英会話講師は、私の“天職”と言うべきものかもしれないほど大好きな仕事でした。
今でも英語が大好きだし、当時も大好きだった。
でも英会話学校の授業って夕方からしか仕事がなくて、朝から夕方まで暇だし、 朝から働きに行ける人を見てうらやましかった。
その「うらやましい気持ち」は少しづつ強くなっていきました。

最初に働いた製薬会社は、実は上京後間もなくして「通訳/翻訳」と言う仕事の募集がJapan Timesにあったので、私は応募したのです。
でも書類選考で落ちてしまった。
9月になって、会社の人からもう一度応募してくれないかと誘いがあった。
なんと、半年も適任者を探したけどいい人が見つからなかったということだった。

9月になって私は「通訳/翻訳」として、会社に入社した。
実は通訳の経験も翻訳の経験もゼロだったけど、 とにかく朝から会社と言うものに通勤したかった。
「うらやましい気持ち」がずっと募っていたので、仕事の内容と言うより朝から会社に行けることが嬉しかったね。

まあ英語は大好きだったので、最初は「通訳/翻訳」も仕事として良かった。
営業レポートを大量に訳したり、 営業マンと外国人マネジャーの通訳をやっていると、会社の仕事が素早く理解できるようになったことなど、メリットは大きかったと思う。

でも何年も通訳をやっていると「自分の考えを言いたい」と言う気持ちが強まるものです。
他人の言葉をできるだけ正確に訳すだけのことに、ちょっと“つまらない”と思うようになっていった。

数年後、会社で通訳以外に宣伝/マーケティングの仕事を担当することになり、随分長く担当した。
でも、宣伝/マーケティングという仕事は「自分には合っているようで、合っていない」ような仕事だった。

そして、図らずも人事に異動になった。
最初全く未経験な仕事で戸惑ったし、何をやればいいのかもわからなかった。
人の採用くらいははっきりしている仕事だったけど。
だから、人事を最初から自分の“天職”とは感じなかった。

人事を3年やってから、また営業に戻って室長になった。
自分としては、かなり「自分の仕事」と言う感じは持ったものです。

それから48歳の時、他の外資系の企業にリクルートされた。
なぜかそこに「人事部長」として入社。
それからだんだん人事は自分の“天職”と 思うようになった。
今でも人事は“天職だった”と思う。ただ、自分の欠点はfire(解雇)の仕事には向いていないと言うことは、はっきりしたけど。
まあ、“天職”といってもその仕事がすべて好きだ、と言うことにはならないね。

とまあ、長く書いたけど、本当はもっと長く話をしたいけど…やめときます。
結論は、会社が与えてくれた仕事の中でも、“天職”と感じるものがあり得る、と言うことだね。
それは多くの場合、自分一人が孤独に、独立して、探し得るものでもない、ということだね。
“天職”ってどこか遠い夢のような仕事、とは限らないものだね。

英語学習は長期の鍛錬 -まず日英の表現方法の違いを認識する

英語って、学校で初めて勉強し始める人がほとんどです。私もその一人でした。最近までそれは中学1年の時でしたが、去年4月からは小学校5年生から正式科目として英語を勉強することになったようです。ですから、英語を勉強するのが初めての時期はいまや小学校5年の時ということになります。

英語って、外国語です(笑)。
発音も文法も文字も語順も全く違う言語です。その外国語を初めて習うのです。どれだけ苦労が多いことか…思いやられます。

もっとも大きな“障害”(難しさ)は、日本語の省略形の会話体を、英語ではほとんど使わないことです。阿吽の呼吸とでもいう日本語独特の短い表現。
例えば、次の日本人の会話の例を見てください。省略形ばっかりです。

(会社の同僚、よく知っている仲間に朝会社へ向かう途中で会った)
A君: いやー、珍しい。めったに会わないね。
B君: そうだね、この時間帯じゃないんだね。いつも何時頃?
A君: うん、もうちょっと早いんだけど、今日は出かける時ガタガタしちゃって。
B君: 最近忙しそうだね。
A君: 仕事振られること多くってさ。
B君: (会社に着いた)じゃあまたね。今度、飲みに行こう。
A君: うん、いつか。じゃあ。(ちょっと手を振る)

これって、ごく普通の会話です。話している人の意図はよく分かり、あいまいなところは何もありません。でも、英語で話すとき、こんな風な省略した形にはなりません。同じことを話すとすれば、全く違う文章構成を強いられます。

それは、

  • 主語を言う。「私、俺、僕」とか、「我々、私達、俺達」とか。Itとか。
  • 動詞を言う。is も動詞。省略しない。
  • 主語+動詞+目的語。いずれも、ほとんど省略しない。
  • 話のテーマ(主語)が何か、はっきり言う。etc.

生れた時から話していて体にしみ込んだ日本語の文型を、少し意識さえすれば英語風に変えられるか、と言えばほぼ無理でしょう。長期間(何年も)努力して、やっと可能になる…という具合でしょう。

私達って、日本語では主語をほとんど言いませんね。「私、私達」って言う時は、自分や自分らを強調したい時だけでしょう。一方、英語ではいつでも、I, I, Iですし、we,we, weです。
上の会話の「めったに合わないね」は We don’t meet so often. 早速weです。
「最近、忙しそうだね」は You seem to have been busy lately. と youです。youなしで、この会話は、まず考えられない。

一方、英語を読んで、その意味は日本語に訳してよく分かるとしても、同じシチュエーションを表現する場合の日本語は、またずいぶん違うものです。
例えば、
I was reading the newspaper this morning and noticed a short but a little interesting story about a woman.
これに学校で習ったような和訳をつけるとしたら、次のようになるでしょう。
「私は今朝新聞を読んでいました。そして、私は短いが少し興味ある、ある女性の物語を見つけました」
でも、日本語で同じ内容のことを言うとしたら、次のような表現になるでしょう。
「今朝、新聞読んでたら、女性の短い記事、ちょっと面白いと思ったんだ」

普段、私たちが頭の中で日本語で物を考える時、まさしく日本語風に考えると思うのです。決して英訳のような文章で考えないでしょう。
まさしくそこが大きな“障害”(難しさ)の一つだと思うのです。
その難しさを克服しようとすると、長期の鍛錬(練習)が必要だと思うのです。
なぜ長期に鍛錬しないとダメかというと、無意識の領域まで英文の文型を落とし込まなければならないからです。英語を喋る時、無意識に英語風になっていなければ話す内容そのものに十分な注意を向けられないからです。
無意識にできるまで練習して落とし込むって、短期にはできません。
人によって長短はありますが、長―い時間がかかります。

一種の二重人格を作り上げる、に似ています。日本語でしゃべっている時と、英語でしゃべっている時と、自分の性格が少し違うなあ、と感じるほどにならないと、英語の文型が身に着いたことにはならない、と言えるかもしれません。

成績の良い高校生が英語の試験で良い成績を取り、有名大学に入学でき、そして問題なく卒業できたとしても、英語に関しては和訳はできるが英文らしい英語を書くこともできないし、ましてや英語を英語らしく話すことはできない、という例をよく見かけます。
まあ当然のことです。
頭の良し悪しは別として、とにかく英文の文型を無意識の領域まで落とし込む、長期の練習(繰り返し)を自分に課すことです。それには繰り返ししかありません。

英語の勉強のベストな方法?!

“ベスト”と書きましたが、one of the best waysという英語のoneのつもりで読んでほしいと思います。絶対的なbestってないと思うので。

中学生
学校の授業でやることはすべて勉強する。
プラス、音読。授業で勉強する単元を最低20回は音読する。
教科書は同じものを余分に1冊買い、ぐちゃぐちゃになるまで書き込みをして使う。
思いついたこと、反対語の例文、熟語など、すべて余白に書き込む。これは自宅用。
書き込みのないきれいな教科書を学校に持参する。

高校生
学校で勉強することはすべて勉強する。
プラス、音読しながら文章の一部を暗記する。
一流大学・有名大学を目指すなら、音読はやらない。時間が圧倒的に足りない。
単語数をひたすら増やすことが欠かせません。      

大学生
専攻科目(英文学でない場合)の英文の資料などを取り寄せ、読解と音読、一部は暗唱に時間を割く。自分で英文を書いて、それを暗唱する。不完全な英語でも、まったく気にしない。     
音読・暗唱が次に「話せる英語」に結びつく。

社会人
サラリーマンで「英語が話せる人」になりたいと願う人。 私が念頭に置いてこのブログを書いているのは、既に社会人になっていて英語が話せない、と思っているような方々です。
これからお話することは、私の提案する方法を読んで実行しようとする人にとっては“ベスト”な方法だと思います。
しかし、個人個人によって「合う、合わない」は千差万別です。合わないと思う場合は、無理しないでください。どんな方法でも、合う、合わないがあるからです。
一応、私流の方法を、暫定的に“ベストな方法”としておきましょう。
合うと思った人にはベストなのですから(何回も言いますが…)。

1. 音読する
英語のテキストは沢山あります。NHKのテレビで放送しているものは頻繁に新しいものが出版されています。また、他の多くの出版社からも数多く本が出ています。
私も20年前に英会話の本を出版しています(笑)
それらの本には英文が沢山載っていることでしょう。どんなテキストであろうと、声を出して読めば、「音読」になります(当然ですが)。
英文を大きな声で、はっきりと音読するのです。
時には朗読のつもりで、感情を込めて読むのもいいでしょう。
テキストはあまり長いものでない方がいいと思います。A4で半ページくらいがいいのではないでしょうか。
音読で、口の筋肉を英語に慣らすのです。何十回と音読します。
40回、50回くらい読むと内容も暗記することができるでしょう。
読み進めるに従い、一回の読む時間はどんどん短くなっていきます。
最初30分かかったものでも、10回、20回くらい読むと10分となり、その内5分くらいで読めるようになるでしょう。ですから、1時間に10回も読めたりします。
トータルの時間はたいしたものではありません。
正の字を書いて、回数をページの端に記録してください。
日本に住んでいて、日本語ばかり使っている環境で英語を身に着けようとするには、音読は英会話能力を身に着けるための最強の手段だと思います。
コストも安いものです(笑)

2. 文の意味する情景を想像する(イメージする)
読んでいる英文の意味を考えながら音読します。単語一つ一つの意味を考える のではなく、文章の意味をイメージするのです。
最初は英文和訳をして、文章の意味を日本語で理解します。単語の意味は、 ページの余白に書き込みます。余白をノート代わりに使いましょう。
日本語で 意味が理解できてから、音読します。そして読みながら、内容の情景をでき るだけリアルにイメージします。
街で誰かと英語で話している情景なら、その英文の情景を頭の中でありあり と想像するのです。想像力は慣れるに従い、だんだんとリアルにできますよ。
最初は心理的に努力するのです。そのうち、日本語を意識しなくても、英語の ままで情景をイメージできるようになります。
まあ、そうなってほしいです。

3. 文章で覚える
学生の時、単語帳を作って単語を記憶しようとしたかもしれません。
受験 では圧倒的に有益な方法だったでしょう。でも英会話を身に着けようとする場 合、それはよくありません。
例えば、
rebut 反論する
altercation 口論
capricious 衝動的な
等々と単語だけ覚えても、英会話には使えません。
必ず文章として覚える。後で使えそうな文章として、多少単語を入れ替えてで も、使えそうな文章にして文章で覚える。その方が単語も覚えやすいし、覚 えたら現実の会話で使えます。
rebutを使った例を一つ挙げてみます。(英語の辞書からの引用です)
Our lawyer saved our case when he rebutted the other lawyer’s speech.
これを何回も、何十回も繰り返して覚えたら、rebutという単語も現実に使える 単語になるでしょう。文章で覚えれば、役に立ちます。
更に、これも重要なことですが、rebutの単語が使われているこの例題は、弁護 士同士の議論であるということです。「それって、違うんじゃない?」と、友達同士 の軽いノリの「反論」ではないということです。この例文ではrebutが使える 話題、シチュエーションが理解できます。
とはいっても、上記のrebutの例は練習用にはあまり適切な例ではありません。 弁護士の会話って、私達には身近なものではないからです。ですから、暗記す る文例は後々使えそうな、身近なものを選ぶことが大切です。 文例で、その言葉の使われる雰囲気、ニューアンスを掴むことができます。
す べての文章にこのことが言えると思います。文章を何回も声を出して繰り 返す中で、それも身に着けることが大切だと思います。

4. 身近なことに置換して覚える
自分とは関係ない情景やストーリーの文章は、覚えようとしても覚えにくいし、 後で使えるシチュエーションがないということもあります。
例えば、旅行の 話がテキストだったりした場合、自分が必要としている場面がアメリカ人への 自社の製品の売り込みで英語を使いたいと思っている時など、旅行の会話例 を練習しても場面が違いすぎます。動機付けとしては、弱いでしょう。
そのようなテキストは避けて、自分が望むシチュエーションに近いテキストで 練習すべきです。NHKの英語テキストなどは、広く一般向けの場合が多い ので、よほど注意して選んだ方がいいです。
更に、自分の身近な事例に置換してから文章を覚えるようにするといいでし ょう。
一例を挙げれば、次のような場合です。
Patty had planned to have a party last weekend. She had invited all of her friends and several co-workers. But at the last minute, she got sick and had to cancel the party.
この例で、そのまま練習するのではなく、Pattyという名前を自分の名前に置き 換えるのです。her をmyに変えます。すると次のようになります。
I had planned to have a party last weekend. I had invited all of my friends and several co-workers.
パーティなんかやらないよ、居酒屋には行くけど…だったら、
I had planned to go to a IZAKAYA last weekend. I had invited some of my friends and co-workers.
こんな風な文章に変えて、何十回と繰り返すのです。 繰り返しになりますが、市販のテキストを使う場合、自分の望む環境に近い内 容なのかよくよく吟味することが大切です。ゆめゆめ、闇雲に無関係なテキ ストを買わないでください。

5. 堂々と話す(声を出す)
私たちは、英語が不得意なのでついつい恥ずかしい気持ちになり、態度など やしぐさがぎこちなかったり、緊張したり、おどおどしたりすることも多いも のです。声にそれが出てしまいがちです。弱々しい声で話したり、相手の目を 見なかったり、あらぬ方向を向いて話したり、ケラケラ笑いながら話したり、 体をあっちこっちに動かしたり…。
単語や文章が出てこなくても、相手の言うことがわからなくても、絶対おど おどしない、恥ずかしがらない、にやけない、卑屈なスマイルをしない、です。

6. 英会話学校に通う
有料の英会話教室は結構高価なものです。出費が痛いですね。できれば通わず に済ませたいものですが、他に英語を聞く、話す機会がないのであればやむ を得ないと思います。
高い授業料を払い英会話学校に通うのであれば、最大限有効に活用しなくて はなりません。もったいないですし。
週に1回、ないし2回通うとします。で も、そこに通ってネイティブの先生の話を聴くだけでは上達しません。“絶対に” うまくなりません(と言いたいです)。
しかし、大きなメリットはあります。それは、一人で勉強すると長く続かず 止めてしまいがちです。学校に通うのは、勉強を継続していく動機付けになり ます。
それが一番の効用でしょうか。
英会話学校は、継続へのインセンティブだと考え、自分でコツコツ練習することです。自分でどれだけ自習したかで、すべて決まります。そうです、音読、朗読、暗唱、空で覚える、声を出す、です。
英会話学校に通う隠れた効用(メリット)は、勉強熱心な人達と友達になれるかもしれないことです。場合によっては、素敵な伴侶を見つけることもできるかもしれません(冗談じゃなく)。

7. 自分で英文を作る
これから英語を勉強しようとする人に向かって、「自分で英文を作る」なんて言うのは間違っていると思うかもしれません。でも、違うと思うのです。サラリーマンの方は、まず自分の仕事に関連したことで英語で説明できることを夢見ると思います。
そこでです。まず自分の仕事を外人に説明するとすれば、どんな話をすることになるだろうかと想像するのです。そして、それを日本語で書き留めます。文章の良さは関係ありません。質疑応答の会話形式でもいいですし、自分であらゆる場面を想定して書いてみます。A4数枚からスタートするのがいいでしょう。 それを自分で英訳するのです。broken English? ええ、それでいいのです。
何回か自分で校正して、まあいいかな、というレベルで十分です。
その原稿を、外人に向かって説明しているかのようにイメージして音読するのです。何回も音読します。だんだんと暗記できるようになります。何せ、普段担当している自分の仕事の内容だからです。
何十回と音読して、十分に慣れたら、原稿を見ないで説明してみましょう。相手が目の前に立っているのを想像して、話しかけるのです。
同じようなことを何回も繰り返します。
また、相手がするだろう質問も考え、自分の答えを書き出します。まずは日本語で、そして英訳するのです。Q &Aの練習です。
慣れてきたら、これも原稿を見ないで演技してみます。role playingです。一人二役のrole playingです。
broken Englishは全く心配しないでください。大丈夫です。徐々にいい英文になります。

8.アフター5は英語の勉強を最優先する(first priorityにする)
毎日のスケジュールを英語優先にするのです。よほどのことでない限り残業を しない、飲みに行くのも断る、英語の勉強を終えてから、他のことをするよう にする。
first priorityにはしますが、他のことをしないわけではありません。 学生なら易しいですが、家族がいるサラリーマンには特に難しいことで しょう。
人生の試練?そんなにまでして、どうして英語を話せるようになりた いのか…なんて迷いが出てくるかもしれません。

9.最低1年(2年か?)は頑張ってみる
1日2時間勉強するとします。週に5日、年間52週。1年で520時間。2年だと1040時間。通勤時間も有効に使えれば、3時間はできるかもしれません。すると1年で780時間。 中・高・大と10年間、私たちは英語を勉強してきた、とよく言います。まあ、形の上ではそうです。でも、自習をあまりしないで過ごした場合は、意外と10年間の時間数は少ないものです。まして、日ごろ英語を使わない場合は、昔覚えたことは忘れてしまいます。
大学を卒業して10年も経っているとしたら、どれだけの英単語を思い出せるでしょうか。それで今回、英語を話せるレベルに高めたいと思うのであれば、1000時間は費やす必要があるでしょう。
音読、暗唱などで、それだけの時間英語を勉強すれば、自分でも英語が出来るようになってきたと実感するでしょうし、周囲の人に「あいつは英語ができるよ」と言われるようになることでしょう(たぶん)。

10.自分の勉強方法を見つける
色々な人の推薦する“ベストだという方法”は、あなたにとってベストではな いことが多いものです。自分自身で納得できる方法、少しも違和感を抱かない 方法を見つけて継続すべきです。
あるいは、以前からなんとなく続けていた方法があり、特に問題ないと感じる のであれば、それを継続してもいいでしょう。それがたぶん、自分にとって ベストな方法かもしれないのです。
自分の置かれた立場、環境、必要とされる英語レベル(推測であれ)、あるいは 単に“好きだから”でもいいでしょう。
自分のやり方を発見して下さい。人それぞれみんな違うのですから。

高齢者の英語勉強法に何か良い方法ない?

定年退職された後の趣味として、英語を再度勉強したい、できれば英語が話せるようになりたい、と思う人もいると思うのです。私の知っている人の中にもそんな人が数人いますから。で、なんかいい方法ないですか、なんて聞かれたりします。
うーん、いい方法ね?いろいろな方法があると言えばある、ないと言えばない、 なんて言うと、ちょっとバカにされそうな雰囲気になりますね。
自分も含め、もっとうまくなれないものだろうか、と自問自答することは多いです。
マジックのような良い方法があれば、ホント、最高だろうに。

パソコン大好き人間の私なので、いつもパソコンの画面を見ているのですが、いろいろな宣伝にぶつかります。それぞれに良さそうな特徴がありそうだが、いずれも試してみたことがない私としては何ともコメントのしようがない、というのが正直なところ。
いい方法かもしれないと見えても、最低1年は試してみないと、その有効性は分からないだろうと思うのです。
私なりにいろいろ考えても、特別な方法はなさそうに思います。
80歳になろうとする今でも、特別な方法は思いつかないし、まあはっきり言って、マジックのような方法はない、と断言しておきましよう(笑)。

中学生や高校生なら、どんな方法でもいいから、数年試してみる価値はあると思います。ベストかどうかは別として、試して特に損はないと思うのです。
でも、高齢者になっているのなら、いろんな方法を新しく試してみるのも億劫なので、今までやってきた「自分のやり方」を続けることが一番無難でしょう、そう思います。
「自分のやり方」って、どんなものだったか少し吟味してみて、もし必要なら過去のやり方に多少の改良を加えてみるのもいいかもしれません。
まあ、そんなところでしょうか。

数年前、結婚したての頃の私の妻の随筆を見たことがあります。
当時英語がよくできたと思われていた私と結婚したので、英語がうまくなる特別な方法を実行しているのだろうと思ったそうですが、結局分かったことは、何のことはない、ただ朗読したり、単語を高校生のように暗記しているだけだったので、がっかりしたという趣旨の内容だった。
何故か苦笑。

今現役のサラリーマンなら、会社や担当の職務内容とそれに関連した想定問答集を英語で作成し(自分で書き上げるのですよ)、それらを暗記するまで口ずさむ、というのはベターな方法(ベストな方法?)の一つかもしれません。
でも、仕事から引退している人の場合、それも該当しないでしょう。

最低限、黙読はやめて、音読(朗読)を中心にすること、心に思ったことは英語に直してみる、は大切かと思います。

英語らしく聞こえるには、「子音」を強調する

言葉(言語)には、母音と子音があります。日本語は母音のみ、もしくは子音と母音の組み合わせで出来ています。ローマ字で書けば、一目瞭然です。
asa (朝)、fuyu(冬)、samui(寒い)、atatakai(暖かい)…全部母音がついています。「ん」は例外ですけど。aoi(青い)は全部母音です。

一方、英語は母音の少ない言葉が多いです。例えば、middle(ミドル)は母音が一個です。カタカナ表記の日本語では母音は3個です。stand (スタンド)も母音が一個。garden(ガーデン)も母音が一個です。トランプ大統領のTrumpも母音が一個。
こうして見ると、英語の母音はかなり少ないことが分かります。

子音が中心となると、言葉を発音するときには子音がきちんと聞こえるように、はっきりと発音しなければ、英語らしくないことになります。~tsのように、「ツ」で終わる場合もよくあります。plantsみたいに。日本語の「ツ」(tsu)で発音すると、母音が入ってしまい英語らしくありません。 

英語DJの小林克也さん(声がすごくdeepで、本当にアメリカ人のキャスターのような声をしている)が以前に雑誌に書いていました。英語らしく発音するには、子音を強調しないさい、と。

英語の音読をするとき、子音をはっきり発音して進むと、息を十分吸っておかないと途中で息苦しくなります。hは破裂音なので、一瞬、息がパーッと出ないとダメです。
例えば、heard (hearの過去形) は、hの破裂音がちょっと強く出ないと英語らしくありません。heartもそうです。

英語を話すとき、話す内容に注意が行き発音には意識がほとんど行かないので、発音はできるだけ無意識に出来るようになっていなければなりません。話すときはゆっくりでもいいから子音をはっきり発音した英語で話せるように、日ごろから発音はしっかり練習したいものです。

子音が身につくと英語らしく聞こえ、内容が正確に伝わることになります。
ただ一つ問題は、正確に英語が伝わるようになると英語そのもののアラ(未熟さ)も一層はっきり見えてしまうことにもなります。ある程度英語が話せるようになると、自分の英語が日本語の時のような“知的レベル”を伝えることができずに、相手に幼稚な人間と見えたりすることも起こります(笑)。 

日本語と英語の“トーン”の違い

離れた所で話しているアメリカ人らしき男性の声がこちらにもよく聞こえてきた、といった経験はないでしょうか。カフェやレストランだけでなく、通りでそんな声を聞くこともあるでしょう。そんな声を聴いて振り返ってみるとアメリカ人らしき人だったと。人にもよりますが、彼らの声はよく響きます。

私は日本語と英語の“声の響き”について関心があるので、以前から映画やテレビなどでよく観察してきました。また、自分でも多少彼らの英語の声の響きに近づけるようトライしてきて、その経験(体感、フィーリング)から、彼我の差を感じるのです。どうしてそんな違いが出るのか、考えてみました。次の説明は一つの“仮説”(試みの説)です。

日本語は口の中の前の部分で発声(発語)し、英語は口の中の奥の方(喉の方)で発声する、ということだと思います。と書いても、今一つその意味が理解できないかもしれませんが…。ちょっと誤解される言い方ではありますが、「口先発音」と「喉発音」と表現すると私の言いたいことを少し理解してもらえるかもしれません。「口先発音」って好きな表現ではないのですが。

敬語のトーン
日本語には敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧語)があります。敬語をしゃべる時、よく注意して自分を観察すると、トーンが高くなっています。気持ちの緊張が姿勢や顔、口に現れ、結果として声が高くなっているのでしょう。会社の新人教育では「社外からのお客様には、トーンを上げた丁寧な声で応対してください」などと教えたりします(私は人事部でした)。

お客様には最大限の丁寧さを示すために、私達日本人は自然に声のトーンを上げて、尊敬・謙譲の意を相手に示すわけです。伝統というか、独特の文化でしょう。

ところで、敬語って日本の歴史の中でいつごろから日本語に出現し、定着したのでしょうか。何故敬語は必要だったのでしょうか。これって、“変な疑問”でしょうか。

リラックスした時のトーン
会社の同僚や部下に話す時には別のトーンがあり、家族間で話す言葉や声にも、更に別なトーンがあります。自分で独り言を言う時のトーンは敬語のトーンとははっきり違います。イライラした時などに発する“怒った声”のトーンもあります。それぞれ、声のトーンは違います。怒った時の声で、特に“ドスを聞かせたような声”は、一番トーンが低いように思います。喉の奥で、喉(声帯、そして仮声帯も)を振動させて発語します。

違うトーンを出せるのは、口の中の発声の位置が違うからだと私は思うのです。 これら色々なシチュエーションで話す日本語も、口の中の前の部分か、中頃で声を作ることがほとんどだと私は感じています。すなわち、口先から、徐々に口の奥(せいぜい中間くらいまで)に移動していくバリエーションです。

口の中の、どの位置で発語するかは、生まれ育って成人になるまで、完全に無意識になっています。

こんな私の話に多少でも疑問を感じる方は、ちょっと注意して自分で観察してみてください。ああそうなのかなあ、と気づくのではないでしょうか。と思います。

「うやまう(敬う)」vs 「へつらう」
「口先で」という表現には、信用できないというマイナスイメージがあります。 「敬う」つもりでトーンを上げていると、いつの間にか「へつらう」声のトーンになっていたりします。「へつらう」は「媚びる」と同じ意味です。トーンは最も高いと思います。「媚びる」とは嫌な言葉ですが、日本語は「媚びる言語だ」と主張する人もいます(嫌ですね、でも一面、真理をついている…?)。

「敬う」が本来の姿勢(態度)だったものが、上の人(上司、お客様、見知らぬ他人など)に対してゴマをする態度に変わり、「口先の」言葉になり、気付かないうちに「媚びる」言葉になっていた…まあ、日常の中であり得ることですね。

発声のメカニズム
声は喉の声帯で声になる、と思っていますが、声帯の声は“原音”で、それを口の中や鼻腔に響かせることによって私たちが聞いている「声」になると言われています。ですから、声帯の振動は声の始まりであって全てではないのです。 声帯は喉頭の中にあり、外から触れるのは喉仏です。言葉を発すると喉仏は少し上に動き、喉の筋肉が緊張状態になります。上がった位置の声帯で緊張した喉で発語すると、口の前部分で声になるときにはトーンが上がるわけです。
喉仏が下がって、しかも喉が緊張してない状態で声を発すれば、トーンは低くなります。独り言を言う時は確かに低くなりますよ。

日本人とアメリカ人の声の重複部分
私の個人的な私見(独断?)では、日本人の「家庭で話す」時の声が、アメリカ人の「やや軽い声」のトーンに近いと思うのです。アメリカ人の“深い声”は、トーンが低く、よく反響している声です。日本人の発声ではめったに見られません。しかし、私たちもイライラして声を荒げて話すときは、アメリカ人の喉発声に近いものと思います。

怒って話すのではなく、心は冷静に、しかし、怒ったときの喉の状態で英語を話すと、アメリカ人と同じベースの英語になる・・・というわけです。難しいですね(笑)。

アメリカ人の“ディープ”な声

アメリカ映画の主人公の声が、日本人にはない“深い声”だと思ったことはありませんか。
Star Wars の第一作目の最初のシーンで、男性のナレーターの声が聞こえてきました。
「遠い昔、遥か彼方の銀河系…( A long time ago in a galaxy far, far away)」という意味の英語のナレーションだったと思うのです。
その声が今でも耳に残っています(たぶんStar Warsだったと思うのですが…)。
引き込まれてしまい、ずっと聴いていたい…とさえ思いました。

最近はインターネットで、アメリカのニュースサイトを頻繁に見ることができます。
キャスターを始め、いろいろな人の声が生で聴けます。バリエーションはありますが、声が印象的な人が少なくないです。
数年前のことですが、そんなニュースサイトでハワイの日系二世らしき若者がとても “ディープ”な英語を話していたのを、今でも覚えています。
ああ、喉や骨格の違いじゃないのだなと思ったものです。
華奢な日本人の骨格だから、ディープな声が出ないと思うのは間違いのようです。

日本人でも低音で、よく響く声の人もいますが、とても少ないように思います。
そして、その“深さ”がアメリカ人ほどではないと感じます。
フランク永井(昭和の流行歌の歌手、「有楽町で逢いましょう」など)のような人は例外的な人ですね。
JALの「ジェットストリーム」という機内クラシック音楽のナレーションをしていた城卓也もよく響く声をしていました。音楽ではなく、声を聴いていたい、とさえ思わせましたね。

日本人のごく一部の人がアメリカ人の低音の声の域にダブっている…と言えるのかもしれません。しかし、一般的に言えば、日本人とアメリカ人の声は、その“深さ”がはっきり違うと思うのです。
昔、中津遼子さん(「英語なんでやるの?」という本を書き、ベストセラーになった)が、日本人の声は遠くまで聞こえない、もっと大きな声で英語を話しなさい、みたいなことを本で主張されていたように思います。
最近は、上川一秋さんという方が、「英語喉」と言う表現を使って、アメリカ人の英語の特徴を説明しています。
ごく最近では、三木雄信さんという方が、「発音じゃなく、発声+リズムが大切」と言い、低い声で、喉の奥を震わせて話すようにと主張されています。
でも、これらの人は本当に少数派です(まったく無視されている、と言ってもいいくらい少数派です)。

日本人が、“ディープ”な声で英語が話せるなら、アメリカ人とのコミュニケーションがより濃密になるかもしれません。肝胆相照らす、みたいな。
英語で外国人と会話する時は、意識して少しでも“ディープ”な声になるよう努めてみてはどうでしょうか?
「緊張して英語をしゃべっているのだから、上ずった声になるのは仕方がない」とは思ってほしくないのです。(上ずった声で英語をしゃべる人は多いですけど。)
でも残念ながら、”ディープ“な声って、意識すればすぐ出せるものではありません。
私自身も何年も意識してきましたが、少しだけ出る程度で自分の夢見る“ディープ”な声にはなっていません。
もっと若い頃にそれを知っていれば…なんて。歳のせいにするな、か。

中国古典の学習方法が今でも生き残っている

日本人の英語ベタは今も変わらないように見えます。
若い世代はこのグローバルな現代、もっと英語がうまくなって当然のはずだよな…と思うのだが、どうやら当然なことにはなっていないらしい。

受験体制がそうさせているのだよ、という人もいれば、学校の先生が文法ばかり言うからダメなんだと主張する人も少なくない。そして、中学では遅すぎるのだ、という意見が強まり、ついに最近小学校から英語学習をスタートすることになりました。

いろいろな主張があり、それぞれに「うん、そうかもしれない」と思わせる説得力は半端ではない。
ところが、誰も言わない理由が別にあると私は思うのです。
はい。話はちょっと長くなりますが、聞いて(読んで)ください(笑)

現在残っている日本の最古の文書は古事記(712年)で、それ以前のものは残っていないそうです。でも、その100年前の聖徳太子(574~622)の頃には既に文字(漢文、漢語)を使っていました。紀元607年、第二回目の遣隋使の聖徳太子の文書「日出ずる処の天子…」は有名です。
中国の皇帝に宛てた手紙で、相手が読める漢文だった、と思います。
一方、仏教が正式に日本にもたらさられたのが、その更に前、紀元538年とされています。その伝来と同時に仏典(多分、すべて漢文。サンスクリット語ではなかったと推測)も多く日本に伝わっていたと思われるので、日本人はそれらを見ていた(読んでいた)はずです。
正式な年号が538年となると、それ以前に既に漢文を読解できた人々がかなりいたと考えるのは自然です。そうでなかったら、仏典などを日本に持ってきても意味がなかっただろうから。
こんな風に考えると、漢文・漢語という中国語が日本にもたらされたのは、大雑把に紀元500年前後(紀元200年代と言う説もあるらしいが)だと想像できます。

ところで、日本の縄文時代、弥生時代には日本には文字がなかったことになっています(「ホツマツタエ」という古代語があったという説はありますが)。
日本に文字がなかった理由について、私は仮説を考えました(検証はできないので、「仮説」とも言えないかもしれませんが)。
それは日本の古代には異民族の支配・被支配の攻防がなかったので、文字の必要性がなかったという仮説です。
言葉の違う異民族が近隣地域に多数存在した場合、支配者は支配を徹底するために言葉を必要としたはずです。
中国大陸のすさまじい支配・被支配の攻防は、まさしく言葉という伝達手段を必要としたと思うのです。

世界最古の文字のひとつ、楔方文字の使用者はフェニキア人だと高校時代に教わりました。
今から5000年くらい前の地中海貿易で栄えた民族です。
詳しくは知りませんが、その後、地中海周辺の民族は多くの文字を発明しました。
文字の発達は、多民族との接触(交易、戦争、支配、被支配などの攻防)がキーだと思うのです。相互に意思を疎通するためには文字が絶対必要だったと。

日本は5000万年前に大陸から徐々に分離し始め、海の中の孤島になったのは1万5千年くらい前です(説によって誤差はありますが)。
1万5千年も隔離されていると、言葉が独自に発展するのも自然なことでしょう。

紀元500年頃、文字のない時代の日本人は中国の文字(漢文、漢語)を知ることになります。
大きなショックを受けたのではないかと想像します。
中国の素晴らしく完成した文字は当時の日本の支配層(天皇を中心とした貴族階級)の知的好奇心を大いに満足させたと思うのです。
そして、支配層のイメージアップに利用できると直感したのではないだろうか。

漢文を学ぶにあたり、中国語の発音を忠実にまねして、中国人と会話しようとしたわけではなかっただろうと想像します。
もちろん言語をそのまま習得して、当時の中国人と会話ができた人もいたとは思います。あるいは通訳(通詞)を専業とする家系の人々がいたかもしれません。
そして日本語訛りの中国語がいつしか漢字の音読みの読み方に定着していったのでしょう。

1500年前から明治まで、日本人はこの漢字(漢語)を高尚な文字、知的レベルの高い人々の文字、学問があることを人々に印象付ける文字として珍重してきました。
途中で、ひらがな、カタカナを発明し、レ点を使わない書き下し文の工夫もしましたが、中心にあったのは、漢文・漢語への憧憬の念でした。

江戸時代は寺子屋でひらがな交じりの漢字を多くの市民が学び、武士は子供のころから論語などの四書五経や朱子学を漢文や書き下し文で学びました。
故に、日本の識字率は非常に高かったと聞きます。

ひたすら漢語の意味を理解することが学問の中心だった時代。
しかし漢語を学んでも、中国人と会話しようとはしなかった時代。
「あの人は学問がある」と言われれば、最高の誉め言葉だった時代は長く続きました。
「学問がある」とは漢文を自由自在に読め、非日常語の漢語が口をついて出てくる人のことだったようです。

ところで、「学問」という英単語はありません。
和英辞典ではlearning, studyとしています。今でいう「勉強」というニュアンスです。
「学問」という言葉から受けるイメージは「勉強」とは違いますよね。

明治になって勉強の対象が漢文から英語になっても、日本人は漢文を勉強してきたやり方をそっくり(?)続けました(一部、例外的な人はいましたが)。
そうです、読んで意味を理解することです。
会話することのニーズはほとんどありませんでしたから、英語も日本語訛りの“音読み”(面白い表現?)でした。

私がここで言いたいポイントは、今の英語の勉強は1500年くらいの漢文学習という長い伝統の上にあるということです。
私達日本人に脈々と受け継がれ、しみ込んでいる学習文化。
だから、日本人なら誰でもスーッと自然に入り込める方法が漢文方式の勉強法だということです。

今でも、日本全国で行われている英語教授法はまさしく漢文式勉強法の流れ(伝統)に沿ったもので、その時々の社会のニーズに影響されて多少の修正が入っても、基本的に長い伝統的な学習方式を踏襲したと言えるのではないかと思うのです。

長い外国語(漢文・漢語)学習の伝統が生き続ける環境で、以前の方法とは違う、会話中心のやり方で英語を勉強しようといっても相当無理があるように思います。
会話中心の学習に変更したいのなら、100%の意識改革、意識転換を図らなければならないでしょう。

英語は学校で勉強する分にはいいが、普段の日常で英語を話すのは恥ずかしい、と言う人さえいます。
日本人の著名人や要人が海外で英語をしゃべっているシーンをテレビでほとんど放映しないのも、英語に対する苦手意識が国民に張り付いているからでしょう。
喋る英語に関しては、いまだに聞きたくない、見たくないとする人々が多いように思うのです。日本人が英語をしゃべっているのを見ると、“こっぱずかしい”みたいに、毛嫌いする人が…

会話を重点とした英語教授を“本気で”推し進めるには、ものすごい覚悟が必要と書きましたが、大げさなことではないのです。
恥ずかしいとか、毛嫌いする心理をまず“消去”しなければなりません。

会話中心の英語学習の推進は“建前の話”としてしか議論されていない、と私には思えて仕方ありません。誰もまじめに、心の底から議論していないと思うのです。
(ちょっと極論過ぎ? うーん…かもね)。

「虫」 insect,bug,wormの鳴き声

もう40年も前の本だが、池田摩耶子という人がアメリカの大学で日本文学を教えていた頃のことを書いています。その中に「虫が鳴く」という表現を教えるのに苦労した経験が載っています。
川端康成の「山の音」と言う小説の中の「八月の十日前だが、虫が鳴いている」という文章は、日本語専攻の学生には文法的には易しいのだが、その意味するところが全く分からないのだという。

「虫が鳴く?何それ?鳴くわけないでしょ!」 アメリカ人の学生は喧々諤々、色々なことを言ったらしい。
池田さんによると、虫= insect, bug, wormとは彼らにとって、「鳴く」存在ではないのだと。
そこで、教室の中で、鈴虫ならリーンリーン、松虫ならチンチロリン、クツワ虫ならガチャガチャ、油蝉ならジージー、くま蝉ならシャーシャー、法師蝉ならオーシーツクツク、オーシーツクツク、などと虫の鳴き声のまねを実演する羽目になり、アメリカ人の学生は大笑いしたらしい。

池田さんによると、ボストンでもケンブリッジでもカリフォルニアのスタンフォード大のキャンパスでも、虫はちゃんと鳴いているのだが、アメリカ人の学生はまったく「聞いていない」のだという。 聞く耳を育てていないとのこと。
「八月の十日前だが」の意味も、何故この文章に入っているのかがわからないらしい。
夏なのに、もう秋を思わせる虫の鳴き声、というニュアンスが全く分からないのだという。
「虫」の声を聞いて、しんみりしたり、悲しくなってしまう感覚は日本人特有のものなのでしょうか。

ところで、「虫」について、日本語ではいろいろな表現があります。

虫のいい                      selfish
虫の好かぬやつ          a disagreeable person
虫の知らせ                  a hunch
腹の虫が納まらない   dissatisfied
本の虫                         a bookworm
虫の息                         be dying
浮気の虫が起こる       have an amorous(多情の)itching
虫が良すぎる              asking too much
虫の居所が悪い          be in a bad mood
虫も殺さぬ                   innocent-looking
泣き虫                          a crybaby
虫の食った                   worm-eaten
虫が起こる                   become petulant
虫がつく                       have a lover
虫干し                          airing
虫歯                             a bad tooth
虫けら同然                   be good-for-nothing
虫眼鏡                         magnifying glass
虫酸が走る                  feel disgusted with
                                     (英語は和英辞書から) 

私達日本人は「むし、虫」という言葉について、深く考えることはありません。
これだけ多くの用例があるのですから、「むし」は何か本質的な意味のある言葉なのではないか、と思うのですが、私にはよく分かりません。

少し想像力をたくましくして考えてみると、例えば何千年か前の昔、日本人は「むし」を体の中の一片の“うずき”( “虫酸が走る”、小さな体内の異変)と考えていて、蚊やハエやノミ、その他の小さな生き物は個別の名前で表現し、「虫」を「むし」という言葉では表現していなかった。
そして1500年前頃、中国から漢字が入ってきて、「虫」と言う言葉を知り、それまで個別に言っていた小さな生き物をすべて「虫」と分類するのだと知り、「むし」と同じ音をあてはめた。
それ以来、それらの小さな生物を「虫・むし」と言い続けた(?)
私は「むし」と「虫」とは違うのではないか…と思ったりします(笑)

いずれにしても、「虫」も「むし」も日本人にとって、遥かな昔からとても大切なものなのでしょう。

「英単語=その意味」で覚えることの“落とし穴”

例えば、「eat=食べる」と記憶する。中学で覚えるには十分かもしれない。
「食べる」という日本語を少し範囲の広い言葉に敷衍すると、ほとんどの英文を理解することができる。だから「食べる」で十分だ、という学習である。

これではeatを使った会話はできない。eatをそのまま(明瞭に)発音すると、命令形になる。
Eat! 食べろ!って、なんてこと言うの?と相手をイラッとさせるでしょう。
「食べる」ことを命令するシチュエーションって、ほとんどないはず。
不機嫌な親が子供に「食べろ」と怒鳴ることがないとは言えないが、珍しいことであろう。
eatと発音した時、その声のトーンによっては(自信をもって、はっきり発音すれば)意図せずに命令になってしまう。

昔、かの有名な松本亨先生がハワイに行って、税関の順番を待っている時、前の日本人がアメリカの係官に険悪な言葉で怒鳴られているのに遭遇したエピソードを本に書いている。
税関の係官は手荷物の中に羊羹を見つけ、「それは何か」と尋ねたらしい。
昔の事なので、その係官は日本の羊羹を知らなかったようである。
それで、くだんの日本人は“Eat”と言ったらしい。
税関の人は、「食べろ!」と言われて、カチンときたらしく、I don’t want to eat it!と声を荒げた。
係官はまた何かを言ったようだが、その日本人はまた、“Eat”と言った。
係官はNo! I don’t want to eat it!! と更に声を荒げた。
そこで松本先生は、何か誤解がありそうなのでhelpしましょうと申し出たとのこと。
ところが係官は、「いや、自分ところの通訳を読んでくるので、助けはいらない」と断った、という。
その日本人は税関の別室に連れていかれて、随分不愉快な経験をすることになっただろうと思う。楽しいはずのハワイ旅行をそんな“事件”で、ふいにしたくないものである。

正しい答えはSomething to eatとか、It’s a Japanese sweet…made of red beans and sugarとか、I will eat it myself とか言えば、問題なく税関を通れたと思われる。 eatの名詞形はeating なので、少なくとも最初に「eating」と言えていれば、次なる質問はあっても、係官を怒らせることはなかったのではないか…

その日本人の気持ちは私にもよくわかる。「食べろ」じゃなく「食べる(もの)」という意味だったはずであると。

英語のeatを単独で発語するシチュエーションはほとんどない。
おそらく全くない、と思う。
常に主語が付く(誰が食べるのか)、あるいはeatingのように名詞になるだろう。
「eat=食べる」と覚えても、会話では使い物にならないことをはっきり覚えておかなければならない。
eat, do, drink, take, sing, choose, make…実に多くの単語は、単独に発語すると命令形になる。
現実には外国人相手に命令形を使用する機会は皆無であろう。家族か会社内ならあるだろうけれども…

言わんとするポイントは、「sing=歌う」と記憶して終わり、という勉強の仕方はほぼ間違った勉強の仕方だ、と言いたいのである。
ほぼどんな時でも、主語が必要である。
I sing. You choose. He makes. などなど。まず主語が必要。
しかも現在形の原形のままで使うこともあまりない。
I sing.と言ったとしたら、相手は戸惑って、What do you mean?と聞いてくるであろう。
Oh, I sing every day. I practice singing. I began to sing last year. みたいに話さなければ、会話にならない。
I singの原形の表現だと、相手を(一瞬にしろ)戸惑わせることにしかならない。
まして、singだけだと、「歌え」と取られかねない。「なんでお前は俺に「歌え」なんていうのか?」とケンカになるかもしれない。

「eat=食べる」、「sing=歌う」を良しとする記憶法は大きな問題だ、と言いたい。英語で会話をしないのであればそれでいいが…。