「感じる」「思う」「考える」
私はブログの中で、「思う」をよく使います。
「思われる」とか「思える」、「思います」とか、多少バリエーションをきかせて使ったりしますが、「思う」「思う」と頻繁に使っています。
この「思う」と「感じる、感じます」は明らかに違うと“思います”。
でも自分の内なる心の動き(振動、バイブレーション)というか、漂う雰囲気を分析してみると、共通した部分も多いようにも“思う”のです。
一方、「思う」と「考える」はどう違うのでしょうか。
「思う」は精神的作業が弱く、「考える」はその作業が強く、明確であるように“思える”のです。「考える」って、かなり理屈っぽい論理的思考のニュアンスがありそうな“感じ”がしますね。
昔、夏目漱石が小説の中で「知に働けば角が立ち、情に棹させば流される」と書いたことがります。知は“考える”と同じようなものかもしれません。
英語に翻訳すると、次のようになるでしょう。
思う=think、感じる=feel、考える=???やっぱりthinkか。
私の「思う」は「感じる」というニュアンスを少し含んでいそうです。
そして「考える」は「感じる」というニュアンスを全く含んでいないように“思う”のです。
すなわち、私が「思う」と書く時は、「感じる」という心の動きが含まれ、私が「考える」と書く時は、思考は本当に「考える」に特化している、と“思う”のです。
Feel vs Think
私の理解では、I feelは英語ではemotion, emotionalとほぼ同じ意味で、アメリカ人は思考プロセスが含まれない、感覚的な人間感情を表現する時に使う言葉だと‘’思って‘’います。
I thinkはもっと人間の知的な論理的プロセスに基づく思考を表す場合に使う言葉だと‘’思います‘’。
フランスの哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」の英訳は、一般的にI think, therefore I am. となります。
日本語では「思う」と訳されていて、英語では thinkになっています。
‘’絶対的な真理を求めて全てを徹底的に疑ってみても、「疑っている自分」の思考だけは排除出来ない‘’
thinking,thoughtは人間が行う特別な心的活動で、人間の本来の姿を現していると考えられているようです。
だからなのか、インテリのアメリカ人は滅多に“I feel”とは言いません。
まあ、emotionalであることが許されているシチュエーション、例えば、家族のことを語るときなどは、I feel、I felt、を使いますが。
仕事の関連で使われることは絶無でしょう(私の知る限りでは)。
「先日テレビで観た映画、良かったですよ」なんていう時、英語では “I think it was a nice movie”.と言うでしょう。
日本語では、“私”(I)は出ていませんが、英語では、I thinkと言うと思います。
この時に、英語で I felt it was a nice movie. と言うか、ですね。
まあ、言えなくはないですが、思考プロセスがきっちり発現されていない、というニュアンスを相手に印象付けてしまうかもしれません。
英語の世界では、思考プロセスがはっきりしているI thinkが圧倒的に好まれるのではないかと‘’思います‘’。
私は「思う」をどうして頻繁にこのブログで使うのかというと、私は自分の考えを読者の方に強く押し付けるつもりはない、あるいは明確な論理的な思考過程を経て物事を語っていないからとも言えます(笑)。
「思う」を頻繁に使う自分の内心をちょっと分析し、英語に絡んで自分を弁明したいと思って、こんな文を書きました。