「天職」について- 人生に迷っている人へ、81歳からのアドバイス

最近40代の娘が、長く勤めている今の会社の仕事がもしかしたら自分の天職なのかもしれないとようやく思えるようになってきた‥というような話をしていて、自分の社会人人生を振り返ってメールでアドバイスを送ったところ、なかなか好評??だったので、少し修正してブログに載せることにしました。

以下メールより

私がアメリカから帰国後、持っていた教員免許で教師になることは頭になく、なんとなく英語を使える仕事をしたい、 と思っていたけど、北海道の地元ではそんな仕事はなく、Time / Life社の仕事に応募してわざわざ東京まで面接に上京したこともあった。
でも当時私は職業経験ゼロの新卒だったので就職できなかった。

結局、翌年(1967年2月)になって、Japan TimesのHelp Wantedの仕事に次から次へと応募するために、 思い切って東京に出てきました。
すぐに見つかったのは、英会話学校の講師の仕事でした。
しかもラッキーにも、学校の近くに部屋を借りることもできて、そこに移りました。
その部屋は、英会話学校の経営者だった人が教会の掲示板に「部屋貸します」という張り紙を見た、と言うことで私を連れて行ってくれたのです。
大家さん一家は年老いた母親と娘さんの二人住まいで、男が住んでいれば防犯になると思っていたらしい。

英会話講師は、私の“天職”と言うべきものかもしれないほど大好きな仕事でした。
今でも英語が大好きだし、当時も大好きだった。
でも英会話学校の授業って夕方からしか仕事がなくて、朝から夕方まで暇だし、 朝から働きに行ける人を見てうらやましかった。
その「うらやましい気持ち」は少しづつ強くなっていきました。

最初に働いた製薬会社は、実は上京後間もなくして「通訳/翻訳」と言う仕事の募集がJapan Timesにあったので、私は応募したのです。
でも書類選考で落ちてしまった。
9月になって、会社の人からもう一度応募してくれないかと誘いがあった。
なんと、半年も適任者を探したけどいい人が見つからなかったということだった。

9月になって私は「通訳/翻訳」として、会社に入社した。
実は通訳の経験も翻訳の経験もゼロだったけど、 とにかく朝から会社と言うものに通勤したかった。
「うらやましい気持ち」がずっと募っていたので、仕事の内容と言うより朝から会社に行けることが嬉しかったね。

まあ英語は大好きだったので、最初は「通訳/翻訳」も仕事として良かった。
営業レポートを大量に訳したり、 営業マンと外国人マネジャーの通訳をやっていると、会社の仕事が素早く理解できるようになったことなど、メリットは大きかったと思う。

でも何年も通訳をやっていると「自分の考えを言いたい」と言う気持ちが強まるものです。
他人の言葉をできるだけ正確に訳すだけのことに、ちょっと“つまらない”と思うようになっていった。

数年後、会社で通訳以外に宣伝/マーケティングの仕事を担当することになり、随分長く担当した。
でも、宣伝/マーケティングという仕事は「自分には合っているようで、合っていない」ような仕事だった。

そして、図らずも人事に異動になった。
最初全く未経験な仕事で戸惑ったし、何をやればいいのかもわからなかった。
人の採用くらいははっきりしている仕事だったけど。
だから、人事を最初から自分の“天職”とは感じなかった。

人事を3年やってから、また営業に戻って室長になった。
自分としては、かなり「自分の仕事」と言う感じは持ったものです。

それから48歳の時、他の外資系の企業にリクルートされた。
なぜかそこに「人事部長」として入社。
それからだんだん人事は自分の“天職”と 思うようになった。
今でも人事は“天職だった”と思う。ただ、自分の欠点はfire(解雇)の仕事には向いていないと言うことは、はっきりしたけど。
まあ、“天職”といってもその仕事がすべて好きだ、と言うことにはならないね。

とまあ、長く書いたけど、本当はもっと長く話をしたいけど…やめときます。
結論は、会社が与えてくれた仕事の中でも、“天職”と感じるものがあり得る、と言うことだね。
それは多くの場合、自分一人が孤独に、独立して、探し得るものでもない、ということだね。
“天職”ってどこか遠い夢のような仕事、とは限らないものだね。

私が目指した英語のレベル- 外国なまりの上品な英語

自分がどんなレベルの英語を話したいか、とそのレベルを意識したのは、今から考えると随分後(社会人になってずっと経ってから)のことだと思う。
それまでは「目指すレベル」などという“おこがましい”ことは考えたことがなかった。
ただただ英語が好きで、少しでもスムーズに話せればいいとだけ思っていた。
ネイティブの英語の魅力には惹かれていたが、それが目標というわけではなかった。
英語を勉強しながら、アメリカ人の胸の奥から響く、何とも言えない“深い音声”に心惹かれることは多かったが。

アメリカ人と仕事にしろ政治経済にしろ、自由に話したい、語りたい、意見を交換したい、と明確に意識するようになったのは、アメリカの企業の日本支社に入り英語を使って仕事をするようになった頃だったと思う。
かなり英語に自信もついてきて、自分でもなんとかすればもっといい線に行けるかもしれないと感じるようになった頃からだった。
その「いい線」がネイティブ並みのレベルということではなく、ネイティブと冷静に議論を交わせるレベル、アメリカ人の反対意見を説得して賛成させることの出来るレベル…に近い気持ちだった。

外資系企業に入社してしばらく経った頃、営業内勤の部署に回され営業・マーケティングの仕事を担当するようになると、本社の関係部署とも連絡が密になり、彼らの説明を聞くだけでなく日本なりの考え方、国内状況の説明もしなければならないことも多くなった。
来日した本社の担当者と色々議論もしなければならない。
アメリカのマ-ケティングが日本で通用しないことも多かったのだ。

本社の担当者から、「アジアでも日本以外は大きなシェアを獲得する業績を上げているのに、日本だけは弱小メーカ一にとどまっているのは何故なのか。日本人の働き方が可笑しいのではないか」と言われて、そんなはずはないと反論したかった。
子会社の社員の立場でたいしたこともできなかったが、彼らの販売方法の違いについて随分考えさせられたものである。
そんな中、もっとアメリカ人並みの言語能力を身に着けたいと思うようになっていったが、しかし私自身の限界もだんだんとはっきり見えてきた。

会社に勤めて10年以上たった頃、自分の目指す英語のレベルは「ネイティブ並みではなく、自分の話す言葉が正確に相手に伝わること。しかもできるだけ上品に聞こえること」と考えるようになった。
ただ言いたいことが伝わればいい、ではなく、外国人(non-native ) として上品な話し方で伝えたいと思ったのだ。

今も(80歳になろうとする今)この考え方は変わらない。
私はYeahとは言わず、必ずYesということにしている。
gonnaとは言わず going to、Hey とは言わずHelloと言う。
スラングは使わない(覚えようとしない)。
water をワラとは発音しない。

主語、動詞、目的語がきちんとした文章を話し、省略形はほとんど使わない。
それが最終的に私が目指した英語のレベル。
それはほぼ、達成できたと思う。
(最近は、簡単な言葉もなかなか出てこなくて、老人の悩みを強く感じるようになってはいるが…)

ネイティブの英語への憧れ

昔、記憶ははっきりしないけれど、映画を見ていて、英語の発音というか、俳優の発する声、に強く心惹かれる時がありました。
映画のセリフってすごく速いし、一つ一つの単語は聞き取れない。
でも声の流れで、見ているこちらの心が掴まれる。
大きな声やドスの効いた声、感情のこもった声といったものじゃなくて、静かに話しているのにこちらの心に深く響く、そんな声。

英会話の勉強を本格的に始めた大学生の頃、「英語がペラペラ話せるようになれば、自分もあんなふうな話し方ができるかもしれない…」と漠然と思っていました。
もちろん勉強を始めてしばらく経っても、ペラペラにはほど遠かったし、そんな実感もなかったのですが、ネイティブの話す英語への憧れは、そんなことが始まりだったように思います。

今も(80歳になる今)その願望の影は心の隅に消えないで残っています。

私の妻曰く、「あなたのご主人は本当に日本人ですか?」と何度か聞かれたことがあるみたいなので、少しは憧れに近づけたのかな…(半分リップサービス?)

しかし、自分で納得するようなネイティブ並みにはなれなかったと思う。
(でも結構幸せな人生ですよ、うん。)