「質問=恥」ではない英語文化

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がある。
日本では質問することは自分の無知をさらけ出すことになり、恥とされる。
分からないまま過ごすと“一生の恥”だとは思っているが、聞くのはやっぱり勇気が必要。何故って、恥だと思うから。
私達日本人は「質問する=恥をさらす」と思っているらしい。

会社の会議で、上司が指示を出す。部下はただ聞いてその場をやり過ごす。
もし分からなければ、後で他の同僚に「あれってなんのこと?」と聞いて確認するが、その同僚も分からないことがある。
別の同僚に聞くと「多分こういうことだと思うよ」と言って、解説してくれる。
長いキャリアの人は、部内の事情から推察して多分こういうことだと推測してくれるわけである。
時には誰も分からず「それって大して重要なことじゃないからいいんじゃない?」という結論になったりする。

アメリカ人が主催する会議では、Any questions? と言って会議を締めくくる。
そんな時、何も質問がないと答えると「こいつ、関心がないんだな」と勘ぐられてしまう。
だから、間髪を入れずシンプルな質問をすることが好ましい。
アメリカの大学の授業では、質問をすることが成績評価にも影響する。
私が留学していた約60年前も、10年前の遊学の時も全く変わらなかった。
質問することはいいことなのだ。

日本では立派な質問だけは質問していいが、シンプルなくだらない質問をしたりすると、会社内の評価を下げてしまうし、質問された上司が怒ったりする。
また、日本では「質問すること」は暗に反対、賛成できないというニュアンスを伝えることもあるので、質問しただけで嫌われてしまうことも多い。

一般に会話の中で「どうして?」と聞くことは稀だし、また聞いてもなんとなく無視されてしまうことが多い。意識的に無視するのではなく、ほとんど無意識の無視である。
「どうして?」と言う質問に、「どうしてなんでしょうねぇ…そうですよねぇ…」と言いながら、答えもせずそのまま話が進んでいく。

人の言わんとすることくらい察してよ、と言うのが日本人の感覚なのであろう。

「気」と「こころ」

何気なく使っている英語と日本語の対比で、かなりの“ずれ”があることに気づかされることがあります。
例えば、「おはよう」という日本語は英語でgood morningです。 日本語は「早い、遅い」の意味が内包されており、good morningは「いい、悪い」を暗示しています。
ほとんど疑問に思わず同じものだと思って使っていますが、文化的に大きな違いが含まれているように思います。
日本人は何千年もの稲作の歴史から、朝早く作業を開始することが必要だったのでしょう。
一方、good morning, good afternoon, good nightの国では、神の規範に照らして、いいか悪いかだったのではないでしょうか(たぶん)。

まだ時々日中でも寒いことがありますが、英語のcoldと言う言葉は「寒い」だけでなく、水がつめたい、ビールがひえた、気持ちがさめた、態度がよそよそしい、人が冷淡など、いろいろなシチュエーションに使える言葉です。
coldという言葉にそれらすべての意味が混然一体となって内包していると言えます。
言葉の意味の“広がり”でしょう。
一方、日本語の「冷たい」と「寒い」とは違う言葉です。
「今日は寒いですね」を「今日は冷たいですね」とは言いません。「このビール、寒いですね」とも言いません。
でも、英語はcold なんです。

日本語にも大きな広がりを持つ言葉があります。
例を挙げると、「気」です。
「気をつける」を英語に直すと、take care of とかpay attention to(和英辞典)になります。「気を失う」はfaintとか lose one’s consciousnessの訳が出てきます。
「気」に付いて、普段よく使う言葉を列挙してみます。
気がある
気が知れない
気が合う
気が小さい
気が散る
気がふさぐ
気が引ける
気が変わる
気が気でない
気が利く
気がくじける
気が長い
気が乗る
気が抜ける
気が大きい
気が楽になる
気が進む
気が立つ
気が遠くなる
気が付く
気が荒い
気のない
気のせい
気の弱い
気の若い
実に多くの表現があります。
日本人なら誰でも何の違和感もなく、日常的に使う日本語です。
こんな日常の日本語「気」に対応する英語が単語としては存在しないのです。
不思議と言えば不思議です。
「気」の英単語はないですが、同じ趣旨のことはすべて英語で表現できます。
take care とかfaintがそうです。
この「気」って、何なのだろうか。なぜ私たちは「気」をこんなに頻繁に使うのでしょうか。

もう一つ例を挙げれば、「こころ」です。「こころ」は心と書く。
心臓の心とすれば、英語ではheartです。英語のheartは臓器以外にも、情緒や感情に深く関わっているという考え方があり、臓器としてのheart以外の意味でも使われます。
しかし、ひらがなで表記した「こころ」は心臓heartと言う意味が全くありません。
以下の表現には日本語独特の「こころ」の意味があるように思います。
「心」の表現を少し列挙してみましょう。
心に浮かぶ
心に描く
心が変わる
心無い
心を奪う
心当たりがある
心を鬼にする
心ある
心ゆくばかり
心を込めて
心の狭い
心の優しい
心ゆくばかり
心から
心ここにない
心の大きい
心に抱く
心を失う
心をひく
実に多くの日常的な表現があり、私たちは何気なく使っています。
「こころ」(心)って、何なんだろう。
“心ここにあらず”の時、私たちは“我を忘れている”ように思います。
すると“こころ”と“我”とが同じなのでしょうか。 “我”は自我、自己、自意識、もう一人の自分、などかもしれません。 でも、頭の働きmindともかなり違うように感じます。

私達日本人は「気」と「心」の定義を考えることはほとんどありません。 私も、昔はさほど気にしたことがありませんでした。
しかし、英語と日本語の対訳をする機会が続くと、時々日英の言葉の違いに不思議さを感じることがあるのです。
日本語にも英語にも、それぞれの長い長い伝統、文化などが独自に内包され、複雑な広がりを持つと感じる次第です。

語順が違う難しさ。考えるプロセスが違う。

中学校で英語を習い始めた頃、I am a boy. This is a pen. という文章が英語の教科書に出てきました。
「私は、です、一人の少年」「これは、です、一本のペン」
機械的に意味を覚えながら不思議な語順だなあと、当時思った記憶があります。
何で「私は、です」と、「です」が「少年」の前に来るのだろう。
普通「私は」なんて言わないし、あえて言うとしたら「僕、少年(大人じゃない)」や、「これ、ぺん(鉛筆じゃないよ)」と言うだろうと。「です」を言うとしても、一番後だよなと。
慣れてくると、簡単な構文の場合、あまり違和感がなくなりました。でもちょっと複雑な文章だと一苦労でした。今でも、ときどき苦労しますね。

こんな日本語の文章はどうだろう。
「しばらく続いていた上向きの景気は、この数日で消え去ったかのようだ。再び底なしの不景気に落ち込むと不安がる企業経営者は少なくないらしい。」
英語で発想するとすれば、「景気 (the economy) 」が主語。「しばらく続いた上向きの」はそれを修飾する表現。
日本語で考えると、「しばらく続いた」という言葉が「景気」の先にまず頭に浮かぶ。「景気」が出てきて、次に「しばらく続いた」とは考えない。
次に英語では「企業経営者」が主語。それにしても、その前の表現が長い。「再び底なしの不景気に落ち込むと不安がる」が、英語では「企業経営者」の後に続くのが普通。
アメリカ人なら、「corporate management」のように、まず主語が頭に浮かぶ。
次に「recession might come again」とか「recession might hit the country」とか「the economy might plummet again」などという言葉が浮ぶだろう。
さて、その後をどうつなげるのか。
「corporate management」と頭によぎった瞬間に「many」が浮んで「many corporate management」と語順を変えてしまうかもしれない。
「many corporate management」が「不景気に落ち込むと不安がる」と考えるのではないかと思います。
上のようなごく日常的な文章でも、日本語と英語では語順が随分と違う。
長年、英語に慣れてきても、私には「しばらく続いていた…」がつい最初に頭に浮かんでしまうことがあります。
そんな時は、頭の中で一時ストップして英語で考え、それらしい文章に組み立てる。
私の経験からもこの語順の問題は大きいと言えます。

「何も見えない闇で、波の音がよく聞こえてくる感じがした」なんていう文章が頭によぎった時、さて、英語ではどう話し始めるのだろうか。
It was really dark. I only heard the sound of waves.
まあこんな感じだろうか。
この日本語の文章では主語は明示されていません。でも、英語ではまず「it」と「I」という主語を明確にします。
また、「闇」というのは単に「dark」でよいのか。「何も見えない」をどう表すのか。「闇」なら、何も見えないのは当然だから、単に「dark」でいいか。
次に「聞こえてくる」は、どうするのだろう。「聞こえてくる」って、波の音が距離をたどってこちらに届いたという雰囲気を、どう英語にするのか?
 結局、この日本語と英語の文章の語順はかなり違うことになると思います。
それと一字一句的には、ニュアンスも少し違います。 

日本語と英語の語順。
言語(文化?)の違いが語順を変えてしまう。そして、意味する範囲も少し(かなり?)違ったものになる。
本当に英語に堪能になるとは、それを飛び越えることなのだろう。その跳躍や脱落、またニューアンスの変容を意識しなくなった時が、本当に英語に堪能になった時なのだろう、と私は思います。

英語を話す時の、英語以外の“ルール・習慣”

英語を覚えて英語で会話をする時、英語(言語)以外の身振り、手振り、視線、顔の表情、その他のボディーランゲージなどがコミュニケーションに深くかかわってきます。
私が今まで心がけてきたことを思いつくまま、少し例を挙げてみたいと思います。

1. いちいち相槌を打たない。顔を上下に動かさない。じっと聞く。
2. ジョークを言われた時以外は、笑わない。真顔で通す。
3. 質問する時は、ストレートに質問する。“遠慮勝ちに、笑いながら”はしない。
4. 相手が話している時は、目を見る。鼻や口でも、ネクタイでもない。
5. 普通の会話の時は、表情豊かに、手振り、身振りをまじえて話す。
6. 英語の単語が出てこない時はしっかり間を取ってもいい。焦らない。
7.声のトーンを上げない。他人行儀、敬語、謙譲などの気遣い(気配り)をしない。
8.敬語的英語を探さない。対等のつもりで、普通の文章で話す。
9.英語は下手で当たりまえ、と割り切って、ブロークンで堂々と話す。
10.おどおどした態度、ちょこまかした態度で接しない。ゆったりと、冷静に接する。
11.雰囲気を和らげようと、愛想笑いをしない。(正直じゃない人間と思われてしまう)
12.「自分は英語が下手で…」と謝らない。
13.ビジネス以外なら、笑顔で応対することはいいこと。
14.連れだってどこかへ行こうとするとき、行く先を話し、同意を得る。勝手に歩き出さない。
15.日本人同士でクスクス笑いをしない。疑心暗鬼にさせる。
16.Noをごまかさない。きっぱりと言う。ただし、語調は柔らかく。
17.断るときは、理由を付け加える。プライベートなことでも。
18.話は明快に。行間を読まない、阿吽の呼吸もダメ。
19.口の奥を響かせた声(喉に響かせる)で話すと、コミュニケーションが濃密になる。
20.日本語を使う時、ボソボソと(一人言のように)言わない。はっきりと言う。
21.日本(自分の国)を悪く言わない。卑下しない。
22.違う語彙を使う。goodだけじゃなく、fine, wonderful, beautiful, nice-looking, etc.
23.背筋を伸ばして話す。頭を高く、背を丸めない。腰を落とさない。
24.わからないことはすぐ質問する。質問は関心の高さを示す。質問は反対を意味しない。
25.握手する時は、お辞儀をしない。目を見る。
26.暗い表情は負け犬。無表情な能面にならない。できるだけエネルギッシュに。
27.腕を組まない。腕は自由にして、ジェスチャーのために使う。
28.意味なく笑わない。薄笑いをしない。苦笑いをしない。 
29.知らないことは「知らない、答えを持っていない」とはっきり言う。恥ではない。
30.恐れないで、反対意見を言う。ただし、表現に注意。
31.相手が言った言葉をおうむ返しに、繰り返さない。できるだけ違う表現(語彙)で言う。
32.早口でしゃべる必要はない。自分のペースを守る。
33.相手に分からないだろうという態度で、日本人同士で日本語を話さない。
34.言葉に出したことだけを理解し、一語一語、額面通りに受け取る。
35.先輩、後輩、地位の上下、年齢の上下などは、ほとんど気にしない。
36.どんな些細なことでも、「私、こう思う」と言う。
37.コーヒーか紅茶か、どっちを望むかと質問されたら、即答できなくてはならない。
38.握手は「同意、賛同、交渉成立、今後もよろしく」の意味がある。手に力を籠める。
39.可笑しい時は、はっきり笑う。笑いを押さえない。
40.アメリカ人が話し始めるのを待たない。聞き役のクセを捨てる。 
41.事実と推測とは明確に区分して話す。
42.「何か質問がありますか」といつも訊く。質問を恐れない。
43.何でも書類を見て答えようとしない。暗記していることが優秀さを印象づける。
44.話題を変える時は、「話は違うのですが」と断りを言う。
45. 質問されたことにはストレーに答える。質問を無視して、他の話題を始めない。
46. 「例えば」と言った時は、一つではなく、できれば三つ、例を挙げる。
47. 頭の中で文章を作ってから、ではなく、まずしゃべり始める。etc.

こんなこと英語とは関係ない、と言う人もいるかもしれない。
(特に英語・英文学のエキスパートや専門家を自認している一部の方々などは…)
しかし、コミュニケーションは言葉が2割、その他が8割という調査もあるようです。
楽しい時は楽しい顔や態度で、シビアなビジネスの交渉はシビアな表情で遠慮なくどんどん交渉する、というのが英語を話す人の態度でなければならないと思います。

“忖度”は英語にはない

「忖度」を電子辞書で調べると、guessとsurmiseが出てきます。
guessは易しい言葉で、英語のテキストにも一般のニュースでもよく見ます。
一方、surmiseは滅多に遭遇することがありません。英英辞書を見ると a reasonable guessとあります。
guessは単なる推測、surmiseは合理的な推測とでも言うのでしょうか。
このように「忖度」は英語的には「推測」と同じ意味で、辞書で訳されています。
でも「忖度」は隠れた気持ち、表には出されていない意図など、発言者の内面の心理を推し量るという推量、推察の意味が強いのではないでしょうか。
更に、今回政治の場面でこの言葉が頻繁に取りざたされましたが、日常的には使われることはほとんどない言葉でもあると思います。
guessの使用される頻度とは桁違いに少ない言葉だと思います。

アメリカでは(英語文化では)忖度のような、相手の気持ちを推し量って、それに合わせて、こちらの態度や対応を合わせるということ(文化)があるのでしょうか。
答えは、“ほぼノー”です。
アメリカ人は基本的には(ほとんどの場合は)言葉に表現されたことを文字通り、額面通り理解し、その言葉に適合した対応を取る、即ち忖度しないということが“期待されて”います。
特に、公式に(プライベート以外で)発言されたもの(会社での会議での発言やビジネスの交渉、他人同士の会話など)は、まさしくそうです。
私の体験からも、そのことは推測できます。  
もちろんアメリカ人も忖度の気持ちは持っていると思います。親しい友人同士や家族間では、忖度し合ったりしますから、彼らとて人の気持ちが分からないわけではない、というわけです。
ちょっとした表情などを読み取り、言葉で言っていることと、本当の気持ちは違うということは察することができるのです(と思います)。
まあ、人間誰しもそのような“気持ちを察する能力”は持ち合わせていると確信します。
しかし、社会的訓練というか、文化的伝統では、言葉(英語)は発言された通りに額面通りに取るべきである、とされています。
だから、人前や社会的な発言はことさらに慎重に行う意識が強いわけです。

一つ例を考えてみましょう。
国として、アメリカと交渉する立場の日本の場合、安全保障の面、貿易の面などで、「自分たちは弱い立場だから、言いたいことも十分言えない」という心理が働き、アメリカ側に日本の立場を何とか“忖度してほしい”と願う気持ちがあるのではないか、と推測される外交交渉があったりします。 
トランプ大統領が日本に不利なことを提案した場合、日本がすぐさま反論しないことはしばしば見られます。彼らの内心では、ちょっと反論(言葉で表現する)してもらえれば、それから「交渉できる」のにと思っていても、日本側が反論しない(言葉に言い表さない)と、賛成したことと理解せざるを得ないという彼らの常識で、対応(反応)しないわけにはいかない、ということになります。
これも「忖度する」と「忖度しない(言葉で表現したものだけをとる)」文化の違いです。

もう少し分かり易い話に例えれば、仮に軍事用戦闘機の交渉を例に考えるとします。
アメリカが一機100億円と価格提示して、日本側に購入を要求してきた場合です。そんな時、日本側は即座に50億でなければ買えない、と反論すべきです。
日本では戦闘機の製造能力がゼロなので、アメリカから買わざるを得ない立場にありますが、価格交渉の時、相手の言い値をそのまま受け入れる必要はない、と考えるべきなのです。(アメリカ人ならそう考えるだろうと思います)
戦闘機って、大量販売はできないものですから、マスプロダクションで製造されるものではありません。ですから、当然コストに対して数倍の利益を上乗せしていると考えられます。100億と言うなら、コストは10か20億ドルだと思われます。
すると100億と提示されたとき、50億とカウンターオファーしてもいいはずです。
そんな時の交渉で、「いやそれは…我が国の予算が厳しくて、そこまでは…いや困りました…上司と相談してみますが…」なんていう対応なら、英語の交渉としては、まったく失格です。
私の言いたいことは、英語の交渉では、カウンターオファーが、“通常の事”だということです。
最後には80億ドルで決着する。最初100億ドルと机を叩いて脅していた相手も喜んで、80億の決着で握手を求めてくることでしょう。アメリカ人の交渉担当者は本国に帰って、「厳しい交渉を乗り越えて、80億ドルで決着できた」と得意げに上司に報告できるはずです。

英語では、言葉で表現されたものを額面通り理解するという伝統(社会的訓練)があるのです。忖度の気持ちというものは個人的、プライベートな感情である、と彼らは捉えていると、私達日本人は考えるべきなのです。

Japan: We will accept the conditions that we have discussed today. Yes, Mr. Smith, we agree with you on the deal.
America: Thank you very much. We came to the reasonable conclusions. It was a very constructive negotiation, Mr. Sato. We’ve enjoyed the meeting. (Shake hands)…

こんな風な終わり方ができれば、英語的な交渉でしょう。
オファー vs カウンターオファー
英語圏での交渉では通常の事です。

ただ、担当者が英語圏の交渉術を熟知していても、忖度の伝統を重んじる国内 の政治家、学者、高級官僚、そして、マスコミなどがそのことを理解していないと、時に非常に難しい立場に立たされることがあります。
「無理に交渉を捻じ曲げている。相手が怒って交渉を中止したらどうするん だ!」
と圧力をかけたりするからです。
あるベテラン担当者はかつて、“後ろから鉄砲の弾が飛んでくる”と愚痴ったこ とがありました。
多くの場合、そんな批判や圧力は交渉当事者を腰砕けにして しまいます。
恐ろしや、忖度!

「思う」vs「think」 を“考える”

「感じる」「思う」「考える」
私はブログの中で、「思う」をよく使います。
「思われる」とか「思える」、「思います」とか、多少バリエーションをきかせて使ったりしますが、「思う」「思う」と頻繁に使っています。

この「思う」と「感じる、感じます」は明らかに違うと“思います”。
でも自分の内なる心の動き(振動、バイブレーション)というか、漂う雰囲気を分析してみると、共通した部分も多いようにも“思う”のです。

一方、「思う」と「考える」はどう違うのでしょうか。
「思う」は精神的作業が弱く、「考える」はその作業が強く、明確であるように“思える”のです。「考える」って、かなり理屈っぽい論理的思考のニュアンスがありそうな“感じ”がしますね。
昔、夏目漱石が小説の中で「知に働けば角が立ち、情に棹させば流される」と書いたことがります。知は“考える”と同じようなものかもしれません。

英語に翻訳すると、次のようになるでしょう。
思う=think、感じる=feel、考える=???やっぱりthinkか。

私の「思う」は「感じる」というニュアンスを少し含んでいそうです。
そして「考える」は「感じる」というニュアンスを全く含んでいないように“思う”のです。
すなわち、私が「思う」と書く時は、「感じる」という心の動きが含まれ、私が「考える」と書く時は、思考は本当に「考える」に特化している、と“思う”のです。

Feel vs Think
私の理解では、I feelは英語ではemotion, emotionalとほぼ同じ意味で、アメリカ人は思考プロセスが含まれない、感覚的な人間感情を表現する時に使う言葉だと‘’思って‘’います。
I thinkはもっと人間の知的な論理的プロセスに基づく思考を表す場合に使う言葉だと‘’思います‘’。

フランスの哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」の英訳は、一般的にI think, therefore I am. となります。
日本語では「思う」と訳されていて、英語では thinkになっています。
‘’絶対的な真理を求めて全てを徹底的に疑ってみても、「疑っている自分」の思考だけは排除出来ない‘’
thinking,thoughtは人間が行う特別な心的活動で、人間の本来の姿を現していると考えられているようです。
だからなのか、インテリのアメリカ人は滅多に“I feel”とは言いません。
まあ、emotionalであることが許されているシチュエーション、例えば、家族のことを語るときなどは、I feel、I felt、を使いますが。
仕事の関連で使われることは絶無でしょう(私の知る限りでは)。

「先日テレビで観た映画、良かったですよ」なんていう時、英語では “I think it was a nice movie”.と言うでしょう。
日本語では、“私”(I)は出ていませんが、英語では、I thinkと言うと思います。
この時に、英語で I felt it was a nice movie. と言うか、ですね。
まあ、言えなくはないですが、思考プロセスがきっちり発現されていない、というニュアンスを相手に印象付けてしまうかもしれません。
英語の世界では、思考プロセスがはっきりしているI thinkが圧倒的に好まれるのではないかと‘’思います‘’。

私は「思う」をどうして頻繁にこのブログで使うのかというと、私は自分の考えを読者の方に強く押し付けるつもりはない、あるいは明確な論理的な思考過程を経て物事を語っていないからとも言えます(笑)。
「思う」を頻繁に使う自分の内心をちょっと分析し、英語に絡んで自分を弁明したいと思って、こんな文を書きました。

英語の文法はどうやって勉強したのか?

中学や高校で文法は学ぶ。
過去や現在形、時制の一致、現在完了や過去完了… 今や、あまり思い出せないくらい遠い記憶になっている。
誰かに言われれば、「あ、それ習ったよ」と思い出すかもしれない程度の記憶。

私が文章を書く時、文法を気にしているかと言うと、実は全く気にしていない。
日本語と同じ。 日本語で文章を書く時、日本語の文法を気にするだろうか?
日本語に文法ってあるんだっけ?くらいの意識しかない。
英語の場合は、そこまで気にしないわけではないが、まあほとんど気にしない。
普段、まったく気にしていないと言っていい。

じゃあ、どうやって、“正しい”英文を書いているのか。
文法を気にしていないとしても、なぜ結果として文法的にも正しい英文が書けるのか。
それは日本語と同じ。語感、文章(話)の流れを気にして書いているから。

英語の語感や文章の流れをどうやって身に着けたのかと言うと、それは過去に習った文章を無意識の領域にまで落とし込んだ、としか言えない。
こんな話を読んでも、ほとんどの人はピーンと来ないかもしれない。
そう、文法を気にしない程度のレベルにならないと、この話はピーンと来ないだろうと思うのです(笑)
決して自慢しているわけではありませんよ…自分の体験を言っているまでです。

英語の話の流れと、日本語の話の流れは違うことが多いです。
一つ例を挙げてみますね。
親しい友人の間の会話。
 「え、昨日デパートに行ったの!よりによって。そりゃ大変だったでしょう。日曜だし、天気も良かったし、混んでて。うん、それで、何、買ったの?」
英語で同じような話は次のようになると思います。
“Oh my, you went to the department store yesterday! Why did you go there yesterday? It must have been crowded. It was Sunday and was a fine day. And what did you buy?”

これは一文ずつ翻訳するつもりではなく、その情景を全体的にただ英文で書き留めたものです。この話はとても簡単な話なので、ほとんど翻訳に近いですが、直訳とは少し違う文章だと思います。
もしこれが、高校の英訳のテストなら、50、60点留まりかも。
「よりによって」、「そりゃ、大変だったでしょう」は直訳していません。ニュアンスを捉えているだけです。その他、語順も違っています。
この英文の文法?基本は過去形の文章。
must have beenは文法的に何というのか?さあ…

英語の例文を一つ一つ音読して暗記していくと、文法なるものが自然に体に染み込んでいくのです。そして迷ったときにだけ、文法書を開く。それでいいのではないかと思います。
私の本棚にも分厚い文法書はあります。先日、進行形過去完了ってどういうのだっけ?と、ちょっとその本を開いてみました。

この話の結論は、「繰り返して、その文章のニュアンス、雰囲気を体に染みこませる」でしょうか。 私はそうやって“文法”を身に付けました。

アメリカで観た映画「七人の侍」

先日NHKのBS放送で、久しぶりに「七人の侍」を観ました。
この映画は1954年公開の映画なので、当時山奥の小さな町の中学生だった私は映画館で観る機会はなく、10年以上たった1965年になってアメリカで初めて観たのです。

留学していた先の大学のキャンパス内のホールで上映されたので、観客はアメリカ人の学生や先生方でした。
映画の評判は私も耳にしていたので、「いい映画らしい」とは思っていましたが、日本映画をアメリカ人と一緒に観るという経験はそれまでになかったので、映画が始まる前は「みんながっかりしたらどうしよう…」という不安もありました。
でも私は映画大好き人間なので、上映が始まったらすっかり映画の世界に引き込まれてしまいましたが…

画面には英語の字幕が出ていて私もつい読んでいたのですが、侍の言葉や百姓(農民)の言葉がこんな風な英語になるのか、と興味をひかれました。
侍は独特の喋り方をしますよね。
それに貧しい百姓と無頼の酒飲みや博打打ちの言葉もそれぞれ違いますが、それら全部が英語としてはごく共通の表現になっていたのが意外でした。
ああ、訳すとこんな風になるのだな…と感じたのを覚えています。

野武士との戦闘で勝利するのがテーマの映画でしたが、その中で若い侍と百姓の娘の淡い恋の駆け引きのシーンがありました。
いつ死ぬかもしれないという緊張の中、若い侍が百姓の娘から無言の誘いを受けドギマギするシーンに、アメリカ人の学生らは大笑いしていました。
日本人の私には侍の恥じらいの心情が手に取るように分かりましたが、アメリカ人にとってはなんともウブで純な様子がすごくかわいらしかったのだろうと思います。
私もつい誘われてアメリカ人と一緒に笑いました。

映画が終わって、周囲のコメントが色々聞こえてきました。
皆とても素晴らしい映画だったと満足しているようでした。
そんな言葉を聞きながら、日本人としてちょっと誇らしい気持ちになったのを覚えています。

この「七人の侍」はアメリカでも評判になり、後に西部劇にリメークされています。
ユル・ブリンナーやスティーブ・マクウィーンが主役を務めた「荒野の七人」です。

この映画がアメリカでとても評価され、有名になった理由はたくさんあると思います。
例えば、侍が単に命令を出す支配者ではなかったこと、農民の総意で野武士との対決を決めたこと、農民の意志が強く表現されていたこと、主役の人々が現代にも通じるような人間味が豊かでそれぞれ個性的であったこと、シーンごとの動きに無駄がなかったこと、迫力のあるダイナミックな戦闘場面があったことなどなど。
全体がある種民主的な合意で敵である野武士に戦いを挑むというテーマも、ユニヴァーサルで文化、伝統の違いを超えて理解しやすかったのではないかと思います。
実に3時間半の大作ですが、私は何度観ても1秒も長いと感じる瞬間はないほど素晴らしい映画です。

これは余談になりますが、アメリカの大学でその他にも映画を見る機会がありましたが、一つ私にとって驚きだったことがあります。
同じ学部の学生らと映画を見て感じたのですが、私は映画が素晴らしければ数時間はその余韻に浸ってしまうクセがあるのですが、他のアメリカ人の学生らはそれがないのです。 映画が終わってその評価や感想をいくつか口にした後は、すぐ翌日の講義の話を始めるし、予習にもとりかかる。さあ勉強だ、みたいに…。
気分転換が恐ろしく速く、あっという間に次のことに頭を切り替える。
まあ、私がちょっと違うタイプということもありますが、それにしてもその気持ちの切り替えの早さには何度も驚かされました。
日本に戻り外資系企業で働いていた頃の外人マネジャーらの気分の転換の速さにも時々驚かされたので、学生だけじゃなくアメリカ人一般の傾向であろう…というのが私の推察です。
このブログを読んでいる方の中で、同じ印象を持たれた方はいるでしょうか??

英語の音読が大切な理由

私は中学の教科書などをよく音読しました。
昔の同時通訳者の国弘正雄さんは教科書を500回とか1000回音読したらしいのですが、田舎の中学生だった私に「音読しなさい」とアドバイスする人は誰もいませんでした。
普通教科書は2、3回黙読して、単語の意味と発音をチェックして先に進むという勉強方法でよかったはずなのですが、私はなんとなく自然に10回とか20回授業の範囲の英文を音読していたのです。

中学・高校の頃、この音読が将来どう影響するのか全く考えたこともなく、ただ音読が好きだったのでひたすら音読し続けていました。
その習慣が大学卒業後にアメリカ留学という思わぬ幸運を私にくれることになるのです。
しかも留学1年目から、学部の学生を相手(アメリカですから、全員アメリカ人!)に論理学の講義をすることになったのです。

音読は受験には不利
 最近、一流大学の入試に成功する英語勉強法はこれだ、という受験指南書を読みました。
その本には、日本の一流の大学に合格するためにはひたすら単語を覚え、その数を増やすことが大事だと書いてありました。
文部省の指導要領では、中学と高校の履修語数は約3000語とのこと。
しかし、ある程度名の通った大学に合格するには5~6000語、更に一流大学に合格するには1万語の単語を覚える必要があるというのです…

ひたすら単語の意味を覚えることと音読とは、全く対極にある行動です。
音読はとにかく時間がかかる。何倍も時間がかかります。
音読で英文が体に浸み込んだと感じるには、膨大な時間と忍耐が必要です。

私は中学の1年から英語が好きで、勉強もよくしていたのですが、ほとんど音読に時間を使っていたので高校の実力試験(範囲のない出題)では、成績は振るわなかったものです。 試験では知らない単語が容赦なく出てくるのですから、回答ができないわけです。
ですから当時自分は勉強ができない子だと思っていました。私の同級生も皆そう思っていたと思います。
この年齢になってこの本を読んで、中学生・高校生で音読をよくやる子は受験には不利なんだ…と言うことに初めて気がついたのです。

それでも音読を推奨したい
音読に時間をさくことは受験には不利です。
でも私の経験から言って、本当に英語を身に着けたいと思うのなら音読は絶対に欠かせない行動です。
もしあなたが本気で英語を話せるようになりたいと思うのなら、ぜひ音読をすることをお勧めします。

音読の“功徳”
1)声を出すと、口の筋肉が英語に慣れる。
2)英語の読み方がだんだんとスムーズになる。
3)自分の声で、英語を“聞く”ことになる。
4)英語が体に“浸み込んでくる”。
5)音読の間、英文の意味を想像する。英語のままで意味が浮んでくるようになる。

音読はなるべく大きな声で行いましょう。
発音は最初は気にしなくてもいいです。カタカナ発音でも構わないのです。
音読に余裕が出てきたら、th, r, l, f, vなどの特有の発音に気を付けるようにしていけばいいと思います。

私が目指した英語のレベル- 外国なまりの上品な英語

自分がどんなレベルの英語を話したいか、とそのレベルを意識したのは、今から考えると随分後(社会人になってずっと経ってから)のことだと思う。
それまでは「目指すレベル」などという“おこがましい”ことは考えたことがなかった。
ただただ英語が好きで、少しでもスムーズに話せればいいとだけ思っていた。
ネイティブの英語の魅力には惹かれていたが、それが目標というわけではなかった。
英語を勉強しながら、アメリカ人の胸の奥から響く、何とも言えない“深い音声”に心惹かれることは多かったが。

アメリカ人と仕事にしろ政治経済にしろ、自由に話したい、語りたい、意見を交換したい、と明確に意識するようになったのは、アメリカの企業の日本支社に入り英語を使って仕事をするようになった頃だったと思う。
かなり英語に自信もついてきて、自分でもなんとかすればもっといい線に行けるかもしれないと感じるようになった頃からだった。
その「いい線」がネイティブ並みのレベルということではなく、ネイティブと冷静に議論を交わせるレベル、アメリカ人の反対意見を説得して賛成させることの出来るレベル…に近い気持ちだった。

外資系企業に入社してしばらく経った頃、営業内勤の部署に回され営業・マーケティングの仕事を担当するようになると、本社の関係部署とも連絡が密になり、彼らの説明を聞くだけでなく日本なりの考え方、国内状況の説明もしなければならないことも多くなった。
来日した本社の担当者と色々議論もしなければならない。
アメリカのマ-ケティングが日本で通用しないことも多かったのだ。

本社の担当者から、「アジアでも日本以外は大きなシェアを獲得する業績を上げているのに、日本だけは弱小メーカ一にとどまっているのは何故なのか。日本人の働き方が可笑しいのではないか」と言われて、そんなはずはないと反論したかった。
子会社の社員の立場でたいしたこともできなかったが、彼らの販売方法の違いについて随分考えさせられたものである。
そんな中、もっとアメリカ人並みの言語能力を身に着けたいと思うようになっていったが、しかし私自身の限界もだんだんとはっきり見えてきた。

会社に勤めて10年以上たった頃、自分の目指す英語のレベルは「ネイティブ並みではなく、自分の話す言葉が正確に相手に伝わること。しかもできるだけ上品に聞こえること」と考えるようになった。
ただ言いたいことが伝わればいい、ではなく、外国人(non-native ) として上品な話し方で伝えたいと思ったのだ。

今も(80歳になろうとする今)この考え方は変わらない。
私はYeahとは言わず、必ずYesということにしている。
gonnaとは言わず going to、Hey とは言わずHelloと言う。
スラングは使わない(覚えようとしない)。
water をワラとは発音しない。

主語、動詞、目的語がきちんとした文章を話し、省略形はほとんど使わない。
それが最終的に私が目指した英語のレベル。
それはほぼ、達成できたと思う。
(最近は、簡単な言葉もなかなか出てこなくて、老人の悩みを強く感じるようになってはいるが…)